2008年02月23日

信玄が動く

凄い題名だな。
貫禄というか、迫力ありますね。


元亀3年(1572年)7月、信長が5万の大軍を率い北近江に来襲した。長政は同盟国である越前国の朝倉義景に援軍を要請、義景は1万5,000の軍勢を率い近江に駆けつけた。信長との正面衝突にはならず、睨み合いが続いたが浅井・朝倉連合軍は織田軍に数で劣っており、依然として苦しい状況であった。

同年9月、将軍足利義昭の要請に応える形で武田信玄が2万7,000の軍勢を率い甲斐を進発。信玄はこの時、長政・久政親子宛に書状を送っている。

「只今出馬候 この上は猶予なく行(てだて)に及ぶべく候」

その後、信玄は遠江で織田・徳川連合軍を蹴散らし(三方ヶ原の戦い)、三河に進んだ。長政らに与えられた役割は、北近江の織田軍を岐阜に戻さないことである。北近江に織田軍を釘付けにすれば、信長は全力をもって武田信玄の軍勢とぶつかることができず、反信長連合軍の勝機は高まる。織田軍の物量に押されじわじわと追いつめられていた長政にとって、信玄の西上は必ず成功させたい重要な作戦であった。

しかし同年12月、北近江の長政領に在陣の朝倉義景の軍が、兵の疲労と雪が降ったという理由で越前に帰国。義景の撤退により北近江に縛られていた織田軍は悠々と美濃に戻った。浅井の寡兵だけでは退却する織田軍の追撃を行えなかったからである。武田信玄は義景の独断に激怒し再出兵を促す手紙(伊能文書)を義景に送ったが、義景はそれに応じることが出来ずだんまりを決め込んだ。それでも信玄は義景の再出兵を待ち軍勢を止めていたが、翌年2月には何の反応も示さない義景に痺れを切らして家康領の野田城を攻め落とす。しかし、信玄は長陣の疲れや、真冬の寒さ、義景に対してのストレスなどの影響によって、以前から深刻な状態であった持病を致命的に悪化させてしまい病死。武田軍は甲斐に退却した。これにより包囲網は完全に破綻し、信長は易々と大軍勢を浅井・朝倉に向ける事が可能になったのである。

引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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